เข้าสู่ระบบ外に出ると、湿った風がまとわりついた。 晴紀はスーツのポケットに手を入れたまま、気づけば歩いていた。 行き先を決めた覚えはない。 ただ、足が勝手に動いた。 夏の光が真上から降り注ぐ朝の街。 ビルの影が濃く落ち、蝉の声が遠くで震えている。 そして角を曲がったとき── 焙煎の香りがふっと鼻をかすめた。(……ブルーオーク?) 考えるより先に、扉を押していた。 空いていた窓際の席に腰を下ろし、紙カップを両手で包んだ。 温度よりも、手に触れている何かが欲しかった。 店内の焙煎の香りに触れていると、 胸の奥でひとつだけ、半年前の記憶が静かに揺れた。(……あの時も、ここに来た) 鬼塚の初案を伝えようとして、朱音を探し回って—— 最後にたどり着いたのが、この店だった。 朱音は迷わず言った。『それはあなたからは受け取らない。 でも……店は見せて』 そのまま二人で京都へ向かった。 職人の手元と、店の温度と、あの日の朱音の横顔がいまも焼きついている。(あの時、初めて思ったんだ)(……彼女なら、清晴堂の未来を作れるかもしれないって) その微かな光が胸の奥でまた灯りかけたとき、店の扉が開く音がした。 ふと視線を上げると──その光の中に、朱音の姿があった。(……え?) 紙カップを買うでもなく、ただ入口で店内を見渡すように立っている。 驚きより先に、晴紀の心臓だけが瞬間的に跳ねた。 こちらの視線に気づいたのか、朱音がゆっくりと顔を向ける。 目が合った瞬間、ほんの一秒だけ、時計の針が止まったように空気が静まった。 晴紀は息を吸うことさえ忘れていた。「……朱音」 それ以上、説明も言い訳も、何も出てこない。 ただ、この店に足を向けてしまった理由がひとつだけ確かになった。(……会うべきだったんだ) 朱音はわずかに目を瞬かせてから、歩み寄り、静かに言った。「……偶然ね」 でも、その声の奥には── ほんのわずかに、未来の気配が揺れていた。*** その日の午後、胸の奥で微かな風向きの変化を感じていた。 理由は分からない。 ただ、何かがそっと未来の方へ転がり始めたような予感だけが残っていた。 角を曲がったとき、焙煎の香りがふわりと頬をかすめた。 気づけば私は、その香りに導かれるようにブルーオークの扉を押していた。
——それから、数週間後。 会議室の空気は、わずかに張りつめていた。「夏の導線がうまく伸びていない。……このままでは頓挫する気がします」 悠斗のひと言に、会議室の温度がわずかに下がる。 晴紀が顔を上げ、鬼塚はゆっくりうなずいた。(やっと……核心に触れたか) 季節導線の第一弾は成功した。 客足は三割増、SNSの温度も高かった。 ──だが、それは春の話だ。 一週間前に始めた夏の導線は、思うように動かない。 来客数は横ばい、SNSの拡散も鈍い。 数字の立ち上がりが、明らかに弱かった。「期待ほどの上がり方ではない」 悠斗は資料を閉じた。「導線の核が……まだ動いていない感じがします」 晴紀も小さく息を吸う。「俺も……そう思ってた」 鬼塚が口を開く。「三人とも感じているはずだ。誰の設計に乗っているかを」 沈黙。 目を逸らす者は誰もいない。 もう全員、答えを知っていたからだ。 鬼塚はゆっくり言葉を置いた。「──朝倉朱音だ」 晴紀の喉が、かすかに震えた。 悠斗も息を呑み、手元の資料を握り直す。 鬼塚は続ける。「季節導線の骨格も、物語としての挑戦も。 すべて最初の企画会議で、彼女が提示した視点だ」 悠斗が視線を落とす。「でも……言えませんでした。これ以上、神園家との摩擦が広がれば……」 鬼塚は静かに首を振った。「皆、分かっていた。ただ、触れないという選択をしていただけだ」 会議室の空気が、ひとつ重い音を立てて沈む。 鬼塚はロードマップを見つめながら、淡々と告げた。「夏・夏・秋・冬。あの四季の軸は、本人しか深められない。 どれだけ優秀な担当者がいても、翻訳者がいなければブランドは折れる」 晴紀がゆっくり顔を上げた。「つまり……」 鬼塚は短く言う。「──呼ぶべき人間は、ひとりだ」 悠斗も小さく頷いた。「……朝倉朱音」「だから外部から答えとして出せるのはここまでだ。最終判断は——経営トップの仕事だ」 二人の視線が、晴紀へ向いた。 鬼塚と悠斗の言葉が、晴紀の胸にじわじわ残響していた。 彼らは、真実だけを言った。 逃げ場のない、正しい言葉だった。 だがその先にあるもうひとつの現実を、晴紀もまた知っていた。(朱音を呼べば……炎上リスクが跳ね上がる)(なにより、神園家はきっと手を引く。 支援がな
朝なのに、もう一度眠りに落ちてしまって、 体だけが先に目を覚ましたみたいだった。 布団の重さと、すぐそばの体温だけが、はっきりしている。 意識はまだ水の底に沈んだまま、呼吸だけを整えていると、 背後から、そっと腕が回された。「……朱音、起きてる?」 耳元に落ちる声は低くて、 朝一番の空気を含んだ、やわらかい甘さがあった。「ん……まだ……」 自分でも驚くほど、素直な返事だった。「いいのよ。あなたの無防備な寝顔は可愛いわ」 首筋に、息がかかる。 その熱に反応して、無意識に肩がすくんだ。 逃げるより先に、 この距離が当たり前になっていることに気づいてしまう。「ねぇ、朱音」「……なに?」「閑職、そろそろ飽きたんじゃない?」「え……?」 寝起きの頭が、一瞬で覚める。 Dはゆっくり身体を起こし、かき上げた髪の隙間から光が落ちた。 横顔だけじゃない。 頬のラインも、まつ毛も、喉元の影までもが、朝の光に溶けるように整っている。 美しいじゃ足りない。 近づくほど輪郭が崩れず、むしろ完成してしまうタイプの美しさだった。 それを見ているだけで、 身体の内側が、静かに熱を持つ。「今、少しずつ働きかけてるわ。あなたの部署」「働きかけ……?」「ええ。あなたが前のように仕事に復帰できるように、内部を動かしてるの」 言葉は淡々としているのに、胸の奥が一気に熱くなる。「……ありがとう」 自然と指がDの腕に触れていた。 感謝と、救われたような気持ちが同時にこみ上げる。(やっと、戻れる……?) そう思った瞬間、胸の奥がほっと緩んだ。 けれどDは、そこで一度視線を伏せ—— すぐに、別の温度を帯びた声で言った。「そういえば、清晴堂の夏の導線。あまりうまくいってないみたいね」「……え?」 脳が一拍置いて動く。(なんで……Dがそんなことを?)「鬼塚から聞いたわ」 胸の奥が、変なふうにざわついた。(もう……忘れたつもりだったのに)(関係ないはずなのに) 気になってしまう自分が、いちばん腹立たしい。「あなたに関係ない話よね?」 Dはわざと軽い調子で言った。 でも、その目だけは私の微かな揺れを逃さずに見つめていた。(試されている) 心の奥に沈んでいた火種が、わずかに息を吹き返すのを自覚してしまう。(気になる……
照明を落とした部屋は、外の世界から切り離されたみたいに静かだった。 カーテンの向こうの街の気配は遠くて、ここには私とDの呼吸しかない。 Dは私をベッドに導いたけれど、すぐには横にならなかった。 シーツを整え、枕の位置を直し、それから私を見る。「……無理はしないで」 その言葉が、胸の奥にやさしく沈む。「無理してないわ」 強がりじゃない。 本当に、そうだった。 Dは小さく笑って、私の隣に腰を下ろす。 触れたのは、手首だけ。 脈を確かめるみたいに、指先がそっと添えられる。「そうね。ちゃんと、生きてる顔してる」「どういう意味?」「壊れてる人は、もっと静かよ」 そのまま、Dは私の手を引いた。 キスは、すぐじゃない。 額に。 こめかみに。 頬に。 じらすみたいに、でも乱さない。 そして、ようやく唇に触れた。 深くない、確かめるだけのキス。 私は目を閉じて、それを受け取る。 拒まない。 でも、急がない。 Dの手が背中に回り、服の上からなぞる。 押さえつけるでも、引き寄せるでもない。 ——ここにいていい。 そう言われているみたいな触れ方。「……今日のあなた、綺麗ね」 一瞬、息が止まる。「……あなたのおかげでしょ」 自分でも驚くほど、素直な声だった。 Dは一瞬だけ言葉を失って、それから、いつもより少しだけ近づいた。「そう言われるの、弱いのよ」 唇が重なる。 今度は、さっきより深い。 舌が触れて、息が混じって、思考が溶けていく。 Dの手が服の端にかかり、ためらいなく引き上げた。 肌に触れた瞬間、細い息が漏れる。「あ……」 恥ずかしさより、安心の方が勝っていた。(ああ……Dには、いつも甘く溶かされてしまう) Dの指は、ちゃんと私の反応を待つ。 早すぎない。 でも、逃がさない。「ね、朱音」 顎に指をかけられて、視線が合う。「これは、逃げ?」 私は迷わず首を振った。「違う。……私は、ここに来たかった」 Dはそれ以上、何も言わなかった。 ただ、ゆっくりと、深く、口づける。 触れ合うたびに、呼吸が乱れていく。 身体が熱を思い出して、考えることをやめていく。 Dの手が腰に落ちて、引き寄せられる。 密着した体温が、はっきりと「選んだ現実」を教えてくる。「声、我慢しなくていい」 低
「…………なん、ですって?」 いずみの声が一段落ちる。 店に出入りする人のざわめきよりも冷たい。 晴紀が淡々と続けた。「春の導線を動かしたのは、朱音の骨格だ。 鬼塚さんも認めていた」 いずみの視線が、ゆっくりと私に向く。 その目の奥で、何かが静かに裂ける音がした。「……許せないわ」 囁くような声なのに、背筋が凍るほど鋭い。「だって——」 いずみは一歩、私のほうへ踏み出した。 唇だけ笑って、目はまったく笑っていない。「清晴堂は私が救うのよ? あなたみたいな人に……横から奪われるなんて」 胸の奥がひゅっと縮む。 いずみは笑顔の皮だけを残して、感情を押し殺すように続けた。「なのに。 どうしてあなたなの? どうしてあなたの案なの?」 最後は、吐き出すように。「……許せない。許せるわけが、ないわ」 いずみの言葉が落ちた瞬間だった。 隣で、晴紀の表情がぐっと歪んだ。 怒りとも、悔しさともつかない、見たことのない陰の影。「いずみ、言い方が——」「事実を言っただけよ? ……ねぇ、朱音さん?」 あの焦げるような視線がこちらに向いた。 胸の奥で、何かがきしんだ。(……もう、ここにいてはいけない) その確信だけが、静かに落ちた。「ごめんなさい。 私は……これで」 晴紀が一歩、こちらに伸ばした。「朱音、待って——」 その声は、ほんの少しだけ掠れていた。 なのに、私の足は止まらなかった。 誰の視線も受け止められない。 誰のためにも、ここに立っていられない。 ガラス扉の外で、冷たい空気が肌を撫でた。 春の匂いは確かにそこにあるのに、 胸の奥はまだ、冬みたいに冷たかった。 そのまま私は、 出入りする人の流れに紛れるようにして、 背を向けた。(……来るべきじゃなかった。 私の居場所じゃないのに) そう思えば思うほど、 足取りは早く、乱れていく。(忘れた方がいい。 名前のないまま、そっと離れた方が) 自分に言い聞かせているだけだと、 どこかでわかっていた。 背中の遠くで、 晴紀が私の名を呼ぶ声が、確かに揺れた。 でも——振り返ったら崩れそうで。 私は、その声を振り切るように歩き続けた。*** 人の流れを抜けた途端、胸の奥がぐらりと揺れた。 気づけば、Dの名前を選んでいた。「……
【清晴堂、来客数回復の兆し 春の導線、職人映像がSNSで拡散中】 季節が、いつの間にか冬から春へ移っていた。 記事を閉じても、薄桜色の売り場写真が胸の奥にざわめきを残す。(……春、動き始めたんだ) 動画を開いた瞬間、心臓がかすかに跳ねた。 桜色の包み、並び順、光の当て方──(……これ、私が提案した「季節の骨格」がそのまま使われてる) けれど次の瞬間、指が止まる。(でも……あれ? ここは私の案と違う) 春菓子の背に、小さな余白の棚。 光の角度で桜影がふっと浮く。(こんなの……思いつかなかった)(……さすが、鬼塚さんだ) ページを閉じても、その棚だけが目に焼きついた。(……少しだけ。ほんの少しだけ、本物を見にいきたい) 本当に、ただそれだけのつもりだった。 でも、会社の出口を出たときには、 足が自然と清晴堂の方向へ向かっていた。(見つからないように。 ただ……企画の現場を見たいだけ)*** 翌朝。 春の空気はまだ冷たくて、 それが逆に胸を落ち着かせた。(……見に行くだけ。入らないから) 自分に言い訳しながら、 私は人の少ない開店すぐの時間に清晴堂へ向かった。 正面入口には近づかない。 観光客が流れ込む前に、建物脇へそっと回り込む。 ガラス越しに見える春の売り場。 桜色の包み、光の落ち方、職人の手元の動画モニター。(……映像で見るより、ずっと綺麗) 胸がひりつく。 自分の企画の骨格がそこにあるのに、 自分だけがこの場所の外側にいる。(……入れない。炎上したの、私なんだから) ガラスに手を触れるのも怖くて、 ただ少し離れた場所から見守るように立っていた。 そのとき──「……朱音?」 背後から、慎重に落とされた声。 振り返ると、 晴紀が買い出しの箱を抱えたまま、目を見開いていた。「なんで……外に?」「見に来ただけよ。外から……また炎上すると困るから」 そう言うと、晴紀の肩がかすかに沈んだ。「そうか」 しばらく黙っていた晴紀は、 ガラス越しの売り場を一緒に見るように立った。「朱音の企画……すごく良かったよ。新しいお客さんがたくさん来てくれてる」「……そう」「元は朱音の案だ。本当に、ありがとう」 その言葉が胸に刺さった。 そんなこと、言われたくなかったのに。 その瞬間─







